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山下麻衣+小林直人「蜃気楼か。」インタビュー

2021年9月24日 於:黒部市美術館
聞き手・ 吉本郁子(みらーれT V ディレクター)/ 尺戸智佳子(黒部市美術館 学芸員)

山下麻衣+小林直人、《infinity~mirage》屋外m型看板の前で[撮影:柳原良平]
――吉本:はじめに、ざっくりと今回の個展「蜃気楼か。」はどのような展示になっているのでしょうか?

小林: 僕らはずっと自然を相手にやってきているので「人」と「自然」というのが活動のキーワードとしてあって、今回も結果的にそういう作品が揃いました。僕らが人間を代表してというか一人間として大きい自然と対峙してみて、そこで何が起きるか見てみる。「人と自然」というと色んな関係があると思うのですけど、自然に何かを投影してみたり、擬人化したり、対立したり、近代化の流れで破壊していったり、今は気候変動などそういった問題もはらみつつ、人としては少し例外的なこと、違うアプローチをとってみるのが僕らのやってきた試みですので、皆さんもその追体験をすることで違った見え方ができればいいかなと。

「世界」という「素材」、日常生活の中にある価値
《人( )自然》2021年、黒部市美術館での展示風景[撮影:柳原良平]
――吉本:お二人の作品には、人と自然、時間軸というのが常にあるなと思っていて、ミネラルウォーターの作品はある種の逆再生なのかなとか、《infinity》は永遠性や継続性、今回の新作の《人( )自然》は、リアルタイムというかそのままの時間軸で、「時間」が常に要素として働きかけていると思うのですが、作る時に意識してらっしゃるんでしょうか?

小林:僕らはもともと油絵科だったんですけれど、そこから写真へ、その後パフォーマンスへとリアリティを求めていって、アトリエの中で何かを作って外に出すというよりは、外に出て行ってリアルな実感として外の世界に働きかけるような、「世界」が「素材」という意識でやっていて。結果的に自分の時間とか人生とかがそのまま作品になったりすることを結構大事にしています。マルクス(*1)などにも影響を受けた部分があって、僕らは何も資本を持っていない人間ですので、そういう人たちは、自分の時間と労力が資本になる、つまり価値が生まれる。そういう発想をヒントに、特に《infinity》など、何にもないところにも時間と労力を注ぎ込めば何か生まれてくるんじゃないか?という試みでした。
僕らは基本的に日常世界、普通の生活の中に価値があると思っているので、そこを何か作品にできないか、ということがありますね。

山下:やっぱり二人とも絵画科出身なので、映像作品を作ってはいますが、映画とは違う、どちらかというと絵画的・彫刻的な考え方があると思います。時間をかけてやるようなプロジェクトが多いので、人に見せる時に、そのままの時間でず~っとというのもやったことありますが、なかなか伝わりづらいというか、それはそれで伝わることもあるんですけど、私自身があまり長尺の映像を見るのが苦手なこともありまして、ギュッと凝縮することが多いですね。
長いスパンをかけてやるプロジェクトは先ほどの「労力」という意味もありますが、「反復」という要素もあります。
例えば飴を舐め続ける《Candy》という作品がそうですが、絵画的な構図をずっとキープしたままの反復運動、そこで出来上がってくる何かを短時間に凝縮する見せ方をしています。私は映像作品として形にしていくところで時間の扱い方も、絵画科出身ゆえの選択をしているような気がしますね。

《infinity》2006年、HDビデオ、4分38秒
《Candy》2005年、キャンディー, グラスボウル, DVD, 19分22秒
――吉本:私も映像をやっている人間として、時間について、人間の集中力の問題もあるしテンポ感もあるし、ここら辺が心地いいとかありますよね。今回《人( )自然》は、文字は同じものを何度も見せたりしていて、それでも11分間見せたいというのはどういった思いでしょうか?

小林:最近、僕らは長尺というかノーカット、ワンテイクでずっと撮り続ける作品を作ることがあって、その場合、撮る側も見る側も同じ時間を共有できます。絵的にもずっと変化し続けるので、あまり尺の意識はないですね。

山下:《人( )自然》の走行コースを考えたのは私で、やはり見る側の集中力の問題はあると思うので10分位でおさまるよう意識しました。撮影する側の集中力もあって、今言ったようにワンテイクなんですよ、カットが入っていない。スタートしたらゴールまでずっと撮りっぱなしで一切編集が入らない映像なので、あれ以上の時間は失敗が出てくるギリギリの長さなんですけど、こちらがそれぐらいの集中力でやっていると、多少長くても見る側もうっかり見てしまうかなと思っています。

小林:今回の展覧会の話を頂いて、《人( )自然》をやろうというアイデアはありました。人と自然の二つの境界が揺らいでいるというか、そもそも二項対立で考えるべきなのか、もう一度それを考えないといけない時が来ている。本来はひとつのものだと思うのですが。
ただ実現を考える上で、ロケ地というか、どこで撮影するか?というのをすごく考えて、都会を走ってもそれはアリですし、あるいはそれこそ自然破壊が行われているところでも良かったんですけど、この富山県の黒部周辺のことを色々知っていくうちに、朝日町が人口が減っているというのがすごく聞こえてきて、ああ、逆に自然に押し返されているところの方が、このテーマを浮かび上がらせるには面白いかな?と。それで朝日町の大平(だいら)という集落を撮影地に選びました。限界集落という言い方をして良いか分からないですけれども、人口が減っていて、だんだん自然と人間の拮抗が自然の方が強くなっている場所です。

アイデア、断片同士の接続や場所との接続
――吉本:自転車を使った映像作品は過去に何回か発表していらして、それぞれ言葉が違いますが、その場から考えるのでしょうか?

小林:場よりもその時の言いたいメッセージや自分らが強く思うことが軸になっています。僕らの中では珍しく言葉を使っている作品なので。ただ基本的には風景の映像で、そこに何かメッセージを添える作品だと思っています。
僕らの作品はサイトスペシフィックというより、割とどこでもありうる作品だと思っています。限界集落にしてもどこでもあると思いますし。その場からインスピレーションは受けていますけど、どこでも言えることをやっています。だから特にどこという特定を映像内ではしていないです。

山下:作品のアイデア自体はすごい数をノートに…《Artist’s Notebook》という作品もあるんですが…書いていて、でもその一つ一つはそれだけでは成立しないようなアイデアで、その断片同士が組み合わさったり、あるいは、場所とうまく繋がると出来上がることがありますね。まさに《infinity~mirage》とか元々は単に文字がリフレクションして、メッセージを読ませるようなアイデアだけがあって。

小林:最初は鏡とか水面とかで考えていたんですけど、上下対象の文字、例えばOとかBとかだけで何かテキストを作れないかな、と。「BOOK」なら可能かな、でも「BOOK」って描いてもしょうがないかな、と、まぁ、作品にはならずにずっと眠ってました。

山下:そんなノートの片隅にあったアイデアでしたが、今回、黒部のお話しを頂いて、リサーチで色々と案内して頂き、たまたま…これはもう仕組まれていたのかもしれないですけど…私たちが興味がありそうということで紹介して頂いた、魚津埋没林博物館の佐藤さんという学芸員の方が、蜃気楼の仕組みを熱く教えて下さって。
私たち自身、大気の気温差による反転現象だということを知らず、普通の方と同じように、どこかの風景がパッと突如現れるいわゆる蜃気楼のイメージしか持ってなかったのが、そこでリフレクションと聞いたもので、これは!とその場で佐藤さんに質問してました。蜃気楼でリフレクションさせて何か読ませるようなことって可能なんでしょうか!?と。

小林:僕は(ノートには)アイデアというより結構他愛も無いことを書いたり、いろんなことをモヤモヤと考えて書き綴っているのですが、それを山下はほとんど頭に入れちゃっているらしく、その場でバッと思い出したようです。

山下:これは二人の役割分担になるのかもしれないですけど、元ネタみたいな、ちょっとしたネタの種をいっぱい撒いておくのが小林なんですよね。私はそういうことはあまり考えなくって、何かと接続させてみたりとか、あまり現実的でないアイデアを現実に引き戻すというか。今回は蜃気楼と結びつけてみたり。

小林:でも大分、僕が考えていたものよりもスケールアップしている(笑)。

《Artist’s Notebook #20》2015年、キャンバスにアクリル、33×24 cm[撮影:木暮伸也]
――吉本:私は作品の中にいるお二人しか見たことがないので、どちらかがボールを投げたらそれを投げ返すみたいなどちらかというと会話しながら作っていくのかなと勝手に思ったりしてたんですけど、でも今のお話を聞いていると、世界から小林さんが何かを受け取って、それをまた世界へ戻すのが山下さん、リレーしているような感じなんですかね。

小林:僕が「何か」を考えるじゃないですか。考え事をしていく中で「犬も歩けば棒に当たる」じゃないですけど、自分の考えをたとえ話でイメージしたりして書き留める。本当はそこでもう満足なんですよ。それを何も外に見せる必要もないですし、わざわざそれをパフォーマンスとか映像にする必要もなくなってしまう。本来僕だけだったらノートで止まって終わっちゃう。

山下:私はそれを見てみたいって思うタイプの人間なんで、やってみたらどうなるんだろう?私自身が見たい、っていうのがすごくあって、それで作っているというところはあります。だから自分でもワクワクするようなものを実現化することが多いですね。

観察、経験、輪郭線に向かって
――吉本:私はお二人の作品でも《積み石》が好きなのですが、人間の力ではどうしようもない、オチのつかない所まで昇華されているというか、ああいう何かが起こるまで待つというのもお二人の作品では結構ありますよね。偶発性も大事にしているのか、それともある程度の計算をされてるんでしょうか?

小林:《積み石》に関しては、うちの愛犬のアンとの共作なんですが、あれも実は普段の生活でのアンの行動を毎日観察していて、「こうしたらこうなるだろうな」っていうある程度の読みはあったりしました。だから偶然に任せるのももちろんそうなんですけど、日常の観察をもとに考えていて、そのバランスですよね。うまくいくまで待ってみる、ただ無理強いはしない、強引に編集したりもしないですね。

《積み石》2018年、4Kビデオ、4分38秒
――尺戸:今の話の続きで、観察とおっしゃっていたのですが、お二人の作品は対象に極限まで近づいていくという姿勢があって、そこから何が起こるのかっていうのが共通していて、今回の《infinity~mirage》もそうだと思うんですが。

山下:そうですね、観察といえば今回も。埋没林博物館がライブカメラで生地(いくじ)海岸の蜃気楼の様子を配信(*2)しているんですけど、去年からほぼ毎日ぐらいの勢いで見てました(笑)。

小林:一つ思うのは、例えば「人間」って言った時の「人間」って、経験とか記憶の蓄積だと思って、例えばキノコのどれが食べられてどれが食べられないっていう経験って、誰かしらが食べたから毒キノコだってわかると思うんですけど、そういう経験をみんな積み重ねていって輪郭線ができるっていうか、これはできてこれはできない、こういう所では生きられる、生きられない、こうした方がいい、こうしたら良くない、と。そういう意味で、僕らは輪郭線に立ちたい気持ちがあって、ただ高い山だとかそういうことは無理だと分かっていて、大体の極限は制覇されていると思いますし…そういうことでなく、日常の中にもいくらでも極限ってあると思っていて、何か変な経験をしてみるのが最前線に立っているリアリティというか、訳わかんない状態にいるということがすごくワクワクする。できるかできないか分からない…というより誰もやらないだろうな…ということをする、それは楽しいかな。特に相手が人間以外の他者だと、もう何もコントロールできないし、したいとも思わないし、そういった他者と接した時に改めて人間の輪郭線が見えてくるというか、まぁ、人間ってなんなんだろう?ってことがまた見えてくる。人間の中にいると、「人間」って言葉自体が出てこないですしね。

《infinity~mirage》2021年、生地海岸に設置したm型看板[撮影:柳原良平]
《infinity~mirage》2021年、m型看板設置のためのプランA案/B案
――吉本:お二人の作品について、非効率で非経済という表現もされていて、アート自体が大概そういうものであるとも言えますよね。《infinity》や《テレパシー》のように、お二人の作品は膨大な時間を感じさせますし、それを見せない部分もある。キノコの話じゃないですけど、いっぱい食べてお腹を壊すこともある、その繰り返しのトライの中に何か際というか輪郭が見えてくるっていう事だと思います。これは先ほどの非効率や非経済を意識してトライしているのか、自然体で行っているのでしょうか。

山下:私たちが《infinity》で走ったりしていた時は、効率や合理的など割と社会構造を追及するようなところはありましたが、だいぶ前ですからね。震災以降は確固たる普通というのが崩れてしまったので、おそらく皆さんも、環境問題含めて、果たして効率的で合理的っていうのが本当に効率的なのか、もう疑問に感じてますよね。

小林:僕ら学生時代とか…もうバブルは崩壊してたかな…まだ結構資本主義でどんどん効率化も図っていて。でもそれって見方を狭めてしまうと思うんですよ、やって意味ないことはやらない、お金にならないことはやらないし、早くなることはするという。それによって取りこぼすことがいっぱいあると思うので、だからやれないことではなくて、やらなかったことがすごく世の中にいっぱいあるんだろうなと思って。《infinity》の頃は、みんなとはちょっと逆の方向に行ってみるとか、それはなにか違うかもよということは示したかったんだと思いますけど、《Candy》、《infinity》、《1000WAVES》…ただ波を1000まで数える作品だったんですけど…それをやった頃から大体僕的には、もうこういうのはいいかなってのがあって。震災はもちろんきっかけとしてあったんですけど、あとはやりたいことをやってみようと、資本主義に疑問を投げかけるより、もっとなにか提案できないかなとか、第三の道を探したいって今は思いますので。

《テレパシー》2009年、HDビデオ、10組のドローイング、11分36秒、各21×29 cm
《1000WAVES》2007年、HDビデオ、50分15秒
不確かさの中で
――吉本:私はお二人と同世代なので、同じ時代を見てきています。子供の頃の日航機墜落事故が人生の中で一つ目のインパクトで、阪神淡路大震災、サリン事件、東日本大震災とあって、どんどん価値観が揺らいでいくというか。今コロナ禍じゃないですか、これもインパクトが大きくて、なんで働いているんだろう、自分の仕事ってなんだろう、この後何年生きて行く気なんだろう、どう生きていこうと思っているんだろう…と、すごく考える時間がいっぱいありました。
今この2021年を表現者として感じる部分や、変化、思いはありますか?

小林:コロナっていう存在、あれは何をしようとしているのか?っていうのを不謹慎かもしれないですけど、興味深く見ていますね。コロナってなんだろう…?と。コロナによって人間社会がストップしましたよね、いきなり。それがすごいなと思ったんです。人間の弱点を突かれたんだろうなと思いました。人って社会的動物なので、まず集まりたくなる、喋りたくなる、騒ぎたくなる、そういうところを狙ってきたのがコロナで、だから自然界からの何かのメッセージなのかな?離れて暮らしなさいとか、一人で考える時間を持ちなさいとか…皆読書とか増えたと思うんですけど。まぁ僕は意外と客観的というか、ちょっと変な見方しているかもしれないですけど。

山下:震災前と後の時と同じで、今まで普通だと思っていたことがすっかり無くなってしまい、不確かな状況というのを実感します。そんな時代というか、タイミングとして重なっているのかもしれないですけど、今回の《infinity~mirage》でも「不確かさ」を扱っていて、そのまま作品になっているのかなって。

小林:ただ僕は「不確か」については震災やコロナ以前から思っていることで、何もネガティブっていう意味ではないです。今回《infinity~mirage》で∞という記号を打ち出していますけど、無限の宇宙と考えた時、僕は子供の頃勉強していてしんどくなると、よく窓から双眼鏡で夜空を見て遠くの星とか覗いたりするのが好きだったんですが、遠くを想像するとちょっと気持ちが楽になりますよね。無限の宇宙の中に自分がいるって考えると、自分が置かれている問題がすごく相対化されて楽になる。ただ本当に「無限」を想像していくと同時に恐怖感もありますよね。普段は多分意識せずに生きていますが、この宇宙がどこまであるか誰にも分からない、そうなるとどんどん人間が小さくなって、自分もどんどん小さくなってくる、存在するかもしれないが存在しないかもしれない。でもだからこそ、そこを受け入れて毎日を楽しむのがいいんじゃないかって。震災やコロナで思い詰めてしまうようなこともあると思いますけど、そういう時にちょっと無限の宇宙をイメージしてもらうと、すべて不確かであることは確かですので、そんなに悩むことなのかなっていう。今回なんで∞を打ち出したのかと思うと、そういうことかなって思います。

――尺戸:《infinity~mirage》で、お二人が制作中に「ライブカメラ面白いね」とお話しされていたのが気になっています。いつ∞になるかも分からず、お客さんも長期的に一緒に観察するプロジェクトという点で私も面白いと思っていて、ライブ配信はお二人の中で新しく取り入れたメディアだと思うのですが、どういうところで面白いと感じられてのでしょうか。

山下:これまで自分の身体を使ったパフォーマンス的な作品を見せる時に、選択肢としてその場でやるか、あるいは撮影した記録を過去の話としてお見せする、その二択ぐらいしか見せ方のバリエーションがなかったんです。人前でやるっていうのは私的に違う。どうしてもそこには「演じる」っていう要素が入ってきますよね。
私にとって作品作りは状況作りだと思っていて、結果のモノを作るよりは、ある状況を作ってそれを皆さんが見た時になにか考えて貰えばいいな、と。答えを用意しないで状況だけを作っているイメージなんですが、そこにはまったのがライブ配信というあり方で。海岸に看板を立ててずっと配信をし続ける事で、見る側もリアルタイムでその状況を体感できる。それが私的には面白く思って、一つ表現の幅が増えたような感じがします。

――尺戸:絶妙に、今回の作品って肉眼で見えないじゃないですか。だから美術館にいてもライブ配信を見るわけで、近くの魚津や黒部にいても離れた東京にいてもライブ配信でしか見えないというところが等価で、更に面白いなと思いました。
――吉本:逆に《考える葦/考えない葦》は、映像は過去のものですけれど、モニターのうしろの窓の外に広がる世界はまさに目の前のリアルなんですよね。場を使うことで今この瞬間しか見られないライブ感がある作品になっていると思ったんですけど、こういった展示の仕方は今までも行われていますか?

小林:環境を取り込んだ見せ方っていうのは今回初かもしれないですね。ここへ来て、目の前に葦原があって、あっと気づいてすぐにスマホで撮った即興的な作品で、実際の風景と一緒に見てもらおうと思いました。「考える葦/考えない葦」っていうアイデアはすでにあって、ノートを遡ってみると2019年のアイデアだったんですけど。

《考える葦/考えない葦》2021年、黒部市美術館での展示風景[撮影:柳原良平]
――吉本:もう一つ《Release of mineral water》の横には、ウォーターサーバーが置かれていますが、どういった狙いでしょうか?

小林:これは学生時代の作品です。今回新作を出す上で、だんだん自然との関わりの展覧会だなと思ってきた時に、その発端を考えると、展覧会の一番最初に《Release of mineral water》を出したいなと思って。天然水を源泉から運んでくるのも人間だとしたら、そこに返しにいく人間がいてもいいのかな?という、僕らが自然に関わり始めるきっかけとなった作品です。最初に黒部にリサーチに来た時に、清水(しょうず)巡りをさせていただいたのもあって清水と一緒に展示したいと思ったんですけど、衛生面で難しく、代わりに「黒部のめぐみ」という天然水を見つけられて。清水巡りもしてもらえるといいなと思うんですけど。

山下:この水ってどこからきているんだろう?と水を飲みながら映像を見る。ウォーターサーバーのインスタレーションも、やはり状況作りというのを意識しています。

――尺戸:天然の清水がたまたま衛生上出せなくて「黒部のめぐみ」という商品になった経緯があります。ただ実はその方が、雨や雪が山に染み込んで地下を流れてきた黒部川扇状地の伏流水をパッケージしているという点で、結果色々なことをキャッチできるものになったなと、後々考えてたんですよね。

小林:作品のきっかけ自体が、僕当時コンビニバイトしていたんですけど、水を売ってた時に、何で水を買うんだろう?っていう素朴な疑問があって。水って降ってきたりとか、川から流れてきたりとか、誰のものでもないのに、水を売って買う人がいて、飲んで、またそれでトイレ行って、それでまた巡って巡って…、どこからこの利益って生まれてくるんだろう?っていう、誰がお金貰っていいんだろうっていう。本来だったら川とか、黒部の伏流水なら黒部の地面がお金を貰うなら分かるんですけど、経済システムの謎というか。不動産もそう、土地買うって誰から買うんだ?って、地面にお金払うのか、とか。牛乳に至っては、牛にお金払うべきなんじゃないか?とか。素朴な疑問はどんどんあるんですけど。

――吉本:ミネラルウォーターってめちゃくちゃ人間臭いものだなって思います。清水は湧水なのでまだ自然ですが、パッケージにしてラベルを貼って値札をつけた時点で、それは自然のものではなくなる。でもそのルーツはなんなんだろう、そのループは面白いなって感じました。
《Release of mineral water》2004/2021年、黒部市美術館での展示風景[撮影:柳原良平]
――吉本:少し話は変わりますが、タイトルについてお聞きします。特にお二人は言葉から刺激を受けながらも細心の注意を払っているというか、練りに練ってらっしゃるのではないのかなと思います。今回の企画展の「蜃気楼か。」というタイトルはどういう経緯で決められたのでしょうか?

山下:このタイトルにしようと決断したのは私なんですけど、蜃気楼に関わるもののリサーチをしていた段階で、芥川龍之介の短編小説「蜃気楼」(*3)に出会い、その中で不意に呟かれた「蜃気楼か。」という言葉に惹かれました。

小林:あらすじを少し言うと、作品の中で芥川龍之介らしい主人公と他友達とみんなで鵠沼海岸に蜃気楼見物に行くんですけど、最初は何か揺れる物を見てクエスチョンつきの「蜃気楼か?」と言っているセリフが出てきます。でもそちらではなく、全部見物が終わった後に一言登場人物のO君がただ呟いた「蜃気楼か。」というセリフの方です。疑問でもなく溜息のようでもあり読むニュアンスが難しいんですけど、何の脈絡もなく「蜃気楼か。」と呟いた言葉が、すごく思わせぶりで、ただ何でもない呟きかもしれないし、世の中全体のことを指して蜃気楼のようなものと言っているのかもしれない。その言葉にシンパシーというか、先程言った「不確かさ」を絶妙に表現しているなと思って。特に芥川からインスピレーションを受けた展覧会というわけではないのですが、是非使いたいと思って展覧会名にしました。

山下:言葉のニュアンスが何とも言えない不思議な響きというか、それが展覧会全体の雰囲気とおそらく同じ印象だなって思ってしまったので…わりと直感的に。最終的には直感的に決めてしまうのは悪い癖ですが(笑)。

――吉本:直感で決めたものを改めてご自身で見てどうですか?

山下:どうなんでしょうか。どうですかね?

小林:大体、僕らの作品って「考える」ということと同義で、まだ分からないことを作品化して定着させているので、作品ができた段階では自分でもまだ答えがわからない。だから作品に対する理解度は、見る方々とあまり変わらないと思うんですよ。やってること自体は分かっているんですけど、それが何を意味するのかとか、どういうことになるのかとか、そこって結構人によって解釈も変わるでしょうし、自分としてもまだ、わかってないから作品にしているので。構造としては成立させてますが「何でこういうことをやったんだろう?」という理解は、何年か経ってから、「あの時こういうことを考えていたんだ」ってようやく分かったりします。

山下:私も今はちょっとわからないですね、整理がついてないです。

小林:蜃気楼に惑わされている状態ですね、日々。

山下:今朝も6時前から起きてライブカメラを見て、あっ、できてるとか、もうちょっとだとか。

――尺戸:今日無限になったんですよね。
――吉本:え、今日!?

山下:今朝なったんです。ちょっと早すぎましたね(笑)。ライブカメラではないんですけど、場所を変えたところから、撮影して下さって。完全にイメージ通りの∞の形になっていて「おおお!」という写真が、早朝届きました。

――吉本:今日まさに展覧会が始まろうというタイミングに幸先の良い船出ですね!ありがとうございました。
《infinity~mirage》2021年、画像提供:魚津埋没林博物館 2021年9月24日6:30頃、早月川河口右岸から撮影
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*1 カール・マルクス(1818~1883)、ドイツの哲学者。資本主義社会や労働者の仕組みを分析した著書『資本論』が知られている。
*2 魚津埋没林博物館 映像ライブラリhttps://www.city.uozu.toyama.jp/nekkolnd/live/
*3 芥川龍之介「蜃気楼―或は、続海のほとり」(初出:「婦人公論 第十二年第三号」1927(昭和2)年3月1日発行)https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/147_15135.html